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牧野富太郎の最初の妻は猶!二人目の妻寿衛子はやり手の経営者だった?

牧野富太郎の最初の妻は猶!二人目の妻寿衛子はやり手の経営者だった?

日本が誇る植物学者、牧野富太郎。

牧野富太郎の妻は寿衛子が知られていますが、牧野富太郎が小沢寿衛子と結婚する以前に結婚していた最初の妻がいます。

それが牧野猶という女性です。

この、最初の妻牧野猶はどんな人だったのか、気になったので、調べてみました。

そして2番目の妻、小沢寿衛子が経営して貧乏を解消したというお店についてもまとめました。

いきなり店を経営して稼げたなんて、すごいと思いませんか?

寿衛子は経営センスを持っていたのでしょうか?

見ていきましょう!

牧野富太郎の最初の妻は猶!

牧野富太郎の最初の妻は、牧野猶(まきの なお)という女性です。

牧野猶は牧野富太郎の従妹で、実家の造り酒屋を手つだっていました。

いつ頃結婚したのかは正確にはわかりませんでした。

牧野富太郎にとっては望まない結婚だったためすぐに離婚したという話もあります。

それにしても牧野猶という女性は表舞台に出てきませんね。

牧野富太郎を語るうえで、牧野猶はどのような存在だったのでしょうか?

これは牧野富太郎と牧野猶の結婚の実態の予想なのですが、

  • 牧野富太郎が十代のころ、自分もまわりの家族も実家の造り酒屋を継ぐと思っていた
  • ちょうど造り酒屋を手伝っている従妹、牧野猶がいるので、結婚したらいいのでは?とまわりが勧めた
  • 牧野富太郎、植物以外には興味がないので、勧められるまま結婚を受け入れた
  • やがて植物研究への情熱が高じて抑えきれなくなり、ついに家を出て東京へ

東京へ出てからは、実家のことをあまり顧みておらず、そのまま疎遠に(離婚?)なっていったのではないかと。

当時は身近な親せきや従妹との結婚は珍しくありませんでした。

そして明治時代の始めには「試し婚」や「足入れ婚」と呼ばれる結婚の形態があり、牧野富太郎と牧野猶ももしかしたらそうだったのかもしれないと思います。

試し婚・足入れ婚とは?

嫁や婿をもらってもすぐには婚姻届を役所に出さず、一定期間生活をともにする風習。
入籍はせずに結婚生活を送り、姑が気に入れば入籍、気に入らなければ追い出すということが行われた。

また、明治時代にはまだ男性はおおっぴらにお妾さんを持つことができましたし、牧野富太郎も最初の結婚のことをそれほど意識していなかったのかもしれませんね。

牧野富太郎はなかなかのイケメンでしたし、まだ一人の女性に縛られたくなかったかもしれません。

あくまで想像です。

牧野富太郎のイケメン画像は↓

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明治20年(牧野富太郎26歳のとき)に実家を取り仕切っていた祖母が亡くなりましたが、店と家は番頭さんと従妹がいたので、商売を続けることができたといいます(両親は牧野富太郎が幼いときに亡くなっている)。

もしかしたらこの従妹が牧野猶で、牧野富太郎と離婚した後も、そのまま家事手伝いを続けていたのかもしれません。

牧野富太郎の二番目の妻寿衛子はやり手の経営者だった?

牧野富太郎の2番目の妻が小沢寿衛子です。

寿衛子との出会いと結婚

牧野富太郎の東京麹町の下宿から大学に通う道に菓子屋がありました。

牧野富太郎は酒もタバコも飲みませんでしたが菓子が大好きで、その菓子屋に目を止め、そこにいた美しい娘小沢寿衛子に人目ぼれをしました。

小沢寿衛子が娘のころの家は裕福で、寿衛子は踊りや三味線の稽古もしていたらしく、粋な芸者のようだったそうです。

きっと洗練された美人だったのでしょう。

二人は明治23年に結婚しました。

新婚当初は生活にも余裕があり、牧野富太郎はこれまで通り研究費と実家をあてにし、贅沢に暮らしていました。

舶来の生地の洋服を着、人力車を乗り回していたそうです。

しかし実家の造り酒屋が破産。

そして牧野富太郎の給料だけでの暮らしになり、そのうち牧野家には子供が次々と生まれ(13人、うち育ったのは7人)、食費にも事欠くようになりました。

牧野富太郎は植物の研究のためならどんな高い本でも購入していたといいますから、ますます貧乏になり借金も増えていきました。

寿衛子の店と経営手腕

そこで貧乏を解消するために寿衛子が大正10年頃、渋谷花柳界の荒木山というところに「今村(寿衛子の姓)」という待合のを出しました。

待合とは?

明治から昭和初期ごろにはやった待合茶屋のことで、そこに芸奴を呼んで遊んだり飲食をする場所。

またそのまま宿泊できる部屋が用意されているところもあった。

政治家の密談場所としても利用された。

寿衛子は経営に関しては素人だったそうですが、いきなり待合のような店を始めるとは大胆な気がします。

実は寿衛子の母親も、夫(寿衛子の父)の死後、芸姑置屋を営んでいたという話もあり、母親の才覚を間近で見て知らず知らず身に付けていたのかもしれませんね。

寿衛子の経営手腕について牧野富太郎はある座談会でこう言っていたそうです。

それは外でもないがこの待合は私自身が開業したものではなく、これは長谷川君のいわれた通り私の妻がやった事であって、その店は私とは世帯が別になっていた。故に私は待合の家には住まっていなかった。そしてこの事件は勿論今日の事ではなくて最早や今から二十七年も前の大正十年頃の出来事である。私の妻が事もあろうに何ゆえこんな恥も外聞も構わぬ大それた芸当をしたのかというと、それは当時私一家が貧乏のどん底に陥っていたので早く金を得て焦眉の急を救い、我が家の経済を立て直さんとするのが唯一の目的であって、それには待合が一番早く金を得るのに都合がよいとの事でこれを選んだわけだ。そして妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた。故に何の臆するところなく大胆にその業をはじめ、渋谷花柳界での荒木山に妻の姓〔別姓〕である「今村」の看板を掲げたのであったが、その後故あって廃業して仕舞い一場いちじょうの昔譚むかしばなしを今日に残したその妻も今は疾とく亡き人の数に入った。

<参考:牧野富太郎自叙伝

「妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた」そうです。

待合というのは出入りする人も多く、その客たちの秘密を守ったり、常連さんへの気を抜けない対応や細やかな心遣いも必要です。

酒と欲望渦巻く場所なのでやっかいなもめごとなども起きそうで、なかなか大変な仕事だと想像します。

しかも牧野富太郎は一切この店にはかかわっていないというようなことを言っていますね。

実質一人でこの待合を切り盛りしたのだとすると、寿衛子はまさに天才的な手腕を持っていたと言えそうです。

それでもきっと必死に働いたのでしょうね。

その後この待合は、長くは続かず最後は悪い客が付き貸し倒れになって店を閉じたということです。<参考:亡き妻を想ふ「植物記」>

ですが寿衛子の店のおかげでなんとか生活を立て直すことができ、牧野富太郎は大好きな研究に没頭できました。

やがて東大泉に家を建てるくらいになると、寿衛子は今度は植物園を作ろうという夢を抱くようになりましたが、その夢は叶わず、寿衛子は昭和3年に55歳で亡くなりました。

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牧野富太郎を生涯を描いた朝井まかてさんの長編小説「ボタニカ」も読まれています。

まとめ

牧野富太郎の最初の結婚相手は従妹の牧野猶でした。

牧野富太郎と牧野猶は、しばらくして離婚しました。

牧野富太郎の二番めの結婚相手は小沢寿衛子です。

小沢寿衛子は牧野富太郎が通った東京の大学への通学路にある菓子屋の一人娘でした。

後ろ盾だった牧野富太郎の実家が破産し、牧野家は貧乏になり、寿衛子は生活費を稼ぐために渋谷に待合の店を出し、経営しました。

寿衛子のおかげで牧野富太郎は植物の研究に没頭することができ、東大泉に家を構えることもできました。

寿衛子の経営手腕は天才的だったと牧野富太郎も一目置き、生涯感謝していました。

最後までお読みくださりありがとうございました。